成長志向の資源循環経済システム「サーキュラーエコノミー」(後編)動きだす産官学パートナーシップ
SAFの導入拡大をめざして、官民で取り組む開発と制度づくり
なぜ、日本は石炭火力発電の活用をつづけているのか?~2030年度のエネルギーミックスとCO2削減を達成するための取り組み
成長志向の資源循環経済システム「サーキュラーエコノミー」(前編)どんな課題を解決するの?
「トイレットペーパーは十分あります」 昭和48年12月3日、静岡県富士市のヤオハンデパート(当時)のトイレットペーパー売り場の様子。(出典)静岡県富士市役所ホームページ
今年2018年は、明治元年(1868年)から150年を数える節目の年。そこで、明治維新以降の歴史の中で、日本のエネルギー開発・エネルギー利用がどのような変遷をたどってきたのかを6回シリーズで振り返ります。第4回は、高度経済成長を遂げ、経済大国となった日本をおそった2度にわたるオイルショック、それに伴って起こったエネルギー政策の大きな変化と、石油に依存したエネルギー体制からの脱却をめざした1970~1980年代の日本のエネルギー史をたどります。
昭和48年(1973年)の晩秋、日本全国のスーパー店頭からトイレットペーパーや洗剤が消えました。オイルショック(石油危機)の影響です。「石油供給が途絶えれば、日本は物不足になるのでは?」。そんな不安感が人々を買いだめ・買い占めに走らせ、一方で売り惜しみや便乗値上げなどをする小売店も現れました。オイルショックはそれまでの好景気を一変させ、時代の転換点になったとともに、エネルギーの安定供給の重要さを世の中に再認識させた出来事でもあり、それ以降のエネルギー政策にも大きな影響を与えました。第1次オイルショックのきっかけは、昭和48年10月に勃発した第4次中東戦争でした。OPECが原油の供給制限と輸出価格の大幅な引き上げを行うと、国際原油価格は3カ月で約4倍に高騰したのです。これにより、石油消費国である先進国を中心に世界経済は大きく混乱。石炭から石油へと舵を切り、エネルギーの8割近くを輸入原油に頼っていた日本も例外ではありませんでした。原油の値上がりはガソリンなどの石油関連製品の値上げに直結し、物価は瞬く間に上昇。急激なインフレはそれまで旺盛だった経済活動にブレーキをかけ、1974年度の日本経済は戦後初めてマイナス成長となりました。高度経済成長期はここに終わったのです。その影響を数値で見てみましょう。第1次オイルショック前5.7%だった一般消費者物価上昇率は、昭和48年には15.6%、昭和49年は20.9%と急伸。鉱工業生産指数については、第1次オイルショック前の昭和46~48年度の平均が8.1%だったのに対して、昭和49~50年度の平均はマイナス7.2%となりました。“ショック”の激震ぶりがうかがわれます。この激震を乗り切るべく、政府はさまざまな対策を実施。「石油節約運動」として、国民には、日曜ドライブの自粛、高速道路での低速運転、暖房の設定温度調整などを呼びかけました。ちなみに、資源エネルギー庁が当時の通商産業省内に設置されたのも、1973年のことです。
「石油不足(石油買占め)」 昭和48年11月に静岡県富士市で撮影された風景。石油が入ったドラム缶らしきものが見える。(出典)静岡県富士市役所ホームページ
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1970年代末から1980年代初頭にかけて、原油価格は再び高騰しました。OPEC(石油輸出国機構)が昭和53年(1978年)末以降段階的に大幅値上げを実施、これに翌年2月のイラン革命や翌々年9月に勃発したイラン・イラク戦争の影響が重なり、国際原油価格は約3年間で約2.7倍にも跳ね上がったのです。これが第2次オイルショックです。日本でもまた物価上昇が起こり、経済成長率も減速しました。しかし、第1次オイルショックでの反省を踏まえ、今度は国民も冷静な対応をとり、社会的な混乱は生じませんでした。
2度のオイルショックを経験した日本では、エネルギーの安定的な供給を確保することが国の将来を左右する最重要課題であると改めて位置づけられ、1970年代から1980年代に3つの施策が打ち出されました。これらの基本的な考え方は、現在にも受け継がれています。日本が世界に誇る省エネの歴史も、ここから始まりました。
昭和48年(1973年)に「石油需給適正化法」を制定。石油の大幅な供給不足が起こった場合、需給の適正化を図るため、国が石油精製業者などに石油生産計画などの作成の指示ができるといったことを定めました。また、長期的な視点から石油備蓄目標などを定めました。昭和49年度(1974年度)中に60日分の備蓄を実現する「60日備蓄増強計画」を実施、昭和50年(1975年)には「石油備蓄法」を制定し、民間備蓄を法的に義務付け、「90日備蓄増強計画」をスタートさせ、昭和54年(1978年)には、国家備蓄を開始しました。
民間備蓄と国家備蓄の推移
(出典)資源エネルギー庁「石油備蓄の現状」を元に作成
昭和54年(1979年)に「エネルギーの使用の合理化に関する法律(省エネ法)」を制定。工場や輸送、建築物や機械などについて、効率的なエネルギーの利用に努めるよう求めました。
昭和55年(1980年)には「石油代替エネルギーの開発及び導入の促進に関する法律(代エネ法)」を制定。石油に代わるエネルギーの開発・導入を打ち出しました。
省エネの技術開発では、1978年に策定された「ムーンライト計画」に基づき、エネルギー転換効率の向上、未利用エネルギーの回収・利用技術の開発などが進められた。この結果、日本の産業は世界でも最高水準のエネルギー消費効率を達成することになりました。一方、石油以外のエネルギーへの転換も促されました。1973年にスタートした「サンシャイン計画」は、太陽、地熱、石炭、水素エネルギーという石油代替エネルギー技術にスポットを当て、重点的に研究開発を進めるものでした。1980年には新エネルギー総合開発機構も設立され、技術開発が推進されました。
サンシャイン計画のプロジェクト
左:六甲新エネルギー実験センター(兵庫県神戸市)右:100kW級風力発電実験機(東京三宅島) (出典)新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)「focus NEDO 特別号」
このような石油代替エネルギーとして注目が高まったものの1つに、原子力発電があります。特に自国に資源を持たないフランス、日本、韓国は「準国産エネルギー」(原発の燃料となるウランは一度輸入すれば燃料リサイクルにより長く使用できるため、国産に準じるエネルギーとして位置づけられる)の比率を高める必要性を認識していたため、原発の導入が進展しました。昭和49年(1974年)には、原発の建設を促進するため、発電所の立地地域への交付金を定める法律なども整備されています。さらに、昭和46年(1971年)には、使用済みの核燃料をリサイクルして利用する「高速増殖炉」の基礎研究を目的として、実験炉「常陽」の建設が始まり、昭和52年(1977年)に臨界に成功します。この常陽で得られたデータをもとに、実用化に向けた原型炉「もんじゅ」の建設が昭和60年(1985年)に始まりました。なお、使用済み燃料を再処理し有効利用する「核燃料サイクル技術」に関しては、日本初の再処理工場である東海再処理工場が、昭和52年(1977年)から再処理試験を開始し、3年後に本格運転となりました。その後、六ケ所ウラン濃縮工場、六ケ所再処理工場の建設が続きます。
天然ガスの利用が本格的となったのもこの頃です。天然ガスは世界中に分布しており、中東に集中している石油にくらべてエネルギーセキュリティーが高いという特徴があります。このため、それまでの石油系エネルギーに代わる都市ガスの原料として注目されていました。1962年から都市ガスの原料として導入された後、利用量は伸び続け、1969年にはLNGタンカーが日本で初めて着岸。その後、全国各地にLNG受入れ基地が建設されました。1970年~1980年の日本は、日々の仕事や生活がどれだけエネルギーに頼ることで成り立っているか改めて見つめなおし、安定的なエネルギーのあり方を模索していった時代でした。そうしたエネルギーに支えられながら発展していった日本は、1980年代後半には、地価や株価などの資産価値が上昇、いわゆる「バブル経済」を謳歌することとなります。次回は、そのように整備されたエネルギー体制に再び変化をもたらした、自由化や温暖化対策の影響についてご紹介します。
長官官房 総務課 調査広報室
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