【日本のエネルギー、150年の歴史①】日本の近代エネルギー産業は、文明開化と共に産声を上げた

井上安治(1864-1889)の「江戸橋ノ景」に描かれた明治時代の東京の風景です。

井上安治(1864-1889)の「江戸橋ノ景」に描かれた明治時代の東京

今年2018年は、明治元年(1868年)から150年を数える節目の年。そこで、明治維新以降の歴史の中で、日本のエネルギー開発・エネルギー利用がどのような変遷をたどってきたのかを6回シリーズで振り返ります。

明治初期に産声をあげた日本の近代エネルギー産業

日本でガス事業や電気事業が始まったのは、明治初期のこと。また石炭・石油の採掘はそれ以前から行われていたものの、本格的な産業として近代化が図られたのは、同じく明治に入ってからです。

これだけのエネルギー分野がときを同じくして一気に事業化したのは、単なる偶然ではありません。明治維新によって、江戸時代に長く続いた鎖国が終わり、西欧の先進技術が導入されたからです。日本の近代エネルギー産業は、まさに文明開化と共に産声を上げたのです。

明治時代の石炭の用途は主に船舶や鉄道など「輸送の動力」でした。一方のガス・電気・石油の初期の用途は、街路灯やランプなどいずれも「灯り」を目的として使われ始め、全国に普及していったのです。

エネルギー別に、明治時代に果たした役割や発展の経緯をみてみましょう。

横浜・馬車道のガス灯から始まった、ガス事業

明治5年(1872年)10月31日(旧暦9月29日)、横浜の馬車道にガス灯が十数基点灯しました。これが、日本のガス事業の始まりです。日本で初めての近代的照明となったガス灯は、文明開化の象徴。点灯初日は、横浜市民はもとより東京方面からも多くの見物人が訪れました。さながら、現代のイルミネーションの点灯式のようなにぎわいだったのでしょう。ちなみにガス灯といえば銀座も有名ですが、銀座の街灯は馬車道の2年後に設置されました。

現在の、横浜馬車道のガス灯の写真です。

横浜馬車道のガス灯 (出典)日本ガス協会ホームページ

ガス灯は、翌月には約100基、2カ月後には約240基、3カ月後には、約300基という勢いで普及します。ただし、1本のガス灯にかかる料金はひと月3円55銭5厘(現在の貨幣価値で数万円)。高価なため、庶民の家庭にはなかなか広がりませんでした。

しかし1890年代になると、それまでの約5倍の明るさのガスマントル(発光剤をしみこませた綿糸や人造絹糸の袋を裸火にかぶせたもの)が登場。これによってガス灯が室内照明用としても使われ始め、日本のガス事業は加速し、明治末期までに全国各地に事業者が誕生していきました。

電灯の明るさに、卒倒する人も!

明治15年(1882年)11月1日には、銀座2丁目で日本初の電気の街灯(アーク灯)の点灯デモンストレーションが行われました。2000燭光(1燭光=ロウソク1本分の明るさ)もの電燈が灯り、その明るさに卒倒する見物人も出たほどでした。

このデモンストレーションは、日本初の電力会社・東京電燈(東京電力の前身)の会社設立と電灯の宣伝を目的に行われたもので、会社はその4年後に開業。その次の年には、日本で最初の一般供給用発電所(石炭火力発電所)が東京の茅場町に建設されました。

その後、電力事業はまたたく間に日本各地に広がり、アーク灯のお披露目から18年後には、電力会社が全国で53を数えるほどに。明治24年(1891年)には日本初の水力発電所・蹴上発電所(京都市左京区)も運転を開始しました。

石油ランプの普及により、日本でも油田開発が

一方、開国とほぼ同時に西洋から輸入された石油ランプも、街路灯などの利用からスタートし、またたく間に家庭や工場に普及しました。石油ランプが普及すると、当然、ランプ用の灯油の需要が高まります。当時、灯油はほとんどが米国からの輸入でしたから、輸入量は増大の一途をたどりました。

国内でも石油開発ができないものか検討がなされ、ときの政府は米国の地質学者ライマンを招き、日本各地で油田地質調査を実施。官業掘削を行うなど油田開発に積極的に取り組みました。

そんな中、日本石油会社(後の新日本石油、現在のJXTGグループ)が、明治21年(1888年)新潟に誕生します。新潟の尼瀬は潤沢な産油地で、『日本書紀』にも、天智7年(668年)に越の国、つまり新潟県で、“燃える水”が宮廷に献上されたという記述がありました。そこで、当地の産業振興に熱心だった有志が資源開発に乗り出したのです。

尼瀬油田の掘削は、日本で初めて「機械掘り」に成功したケースであり、また世界初の海洋掘削であることから、近代石油産業の出発点といえます。

外国からの技術導入で、近代化が進んだ石炭事業

日本でもっとも古くから使われてきたエネルギー源が石炭です。日本で“燃える石”、石炭の存在が知られるようになったのは、室町時代のこと。幕末の安政6年(1859年)の『石炭由来記』によれば、九州の三池村稲荷村(現在の福岡県大牟田市)で村人が焚火をした際、地上に露出していた黒い岩が燃え出し、これが石炭の発見だったと伝えられます。しかし、その後は長い間、薪の代替として自家消費されるにとどまっていました。

ところが、幕末に外国商船が日本に出入りするようになると、蒸気船の燃料として石炭需要が高まり、北海道の釧路や九州の高島で炭鉱が本格的に開発されるようになります。特に明治元年(1868年)に佐賀藩によって建設された高島炭鉱は、英国人グラバーの指導により、日本で初めて蒸気機関を使って石炭を採掘する「洋式竪坑」が導入されました。これをきっかけに、石炭産業分野の近代化が急速に進みました。

かつての高島炭鉱の写真です。

高島炭鉱 (出典)三菱マテリアル

明治7年(1874年)に21万トンだった出炭量は、その後も続く炭鉱開発の結果、明治16年(1883年)には100万トン、明治36年(1903年)には1000万トンを超えるほどに増えました。こうして、石炭産業は一大エネルギー産業となっていったのです。

次回は、1900年以降の日本のエネルギーの歴史をたどります。

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