【日本のエネルギー、150年の歴史③】エネルギー革命の時代。主役は石炭から石油へ交代し、原子力発電やLPガスも

昭和42年の富士山と工業地帯の写真です。

富士山と工業地帯(昭和42年)

今年2018年は、明治元年(1868年)から150年を数える節目の年。そこで、明治維新以降の歴史の中で、日本のエネルギー開発・エネルギー利用がどのような変遷をたどってきたのかを6回シリーズで振り返ります。

第3回は、第二次世界大戦後の高度経済成長を遂げる中で、エネルギー革命の起こった日本のエネルギー史をたどります。

高度経済成長期とエネルギーの大転換

戦後、日本経済は朝鮮戦争特需とその後の好景気によって、戦前の経済水準まで戻ります。これをうけ、昭和31年(1956年)の経済白書には「もはや戦後ではない」とうたわれ、この言葉は流行語にもなりました。

冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが三種の神器ともてはやされ、一般家庭に家電製品が普及。昭和39年(1964年)には日本初・アジア初のオリンピックも開催され、新幹線や高速道路なども次々整備されていきました。時代はまさに、高度経済成長期に突入します。

そんな1950年代~1960年代は、エネルギーの主役が石炭から石油に交代した「エネルギー革命」の時代でもありました。

構造的な不況に陥り、閉山への道をたどった石炭

戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領行政のもと、日本では経済再建のための政策が進められました。その突破口として、石炭や鉄鋼に資金・資材・労働力を重点的に配分する「傾斜生産方式」が講じられました。中でも鉄道輸送や重工業に欠かせない石炭は、最優先で緊急増産対策が実施されました。

この結果、石炭の生産は飛躍的に伸び、戦後の経済復興を牽引していくこととなります。こうして、国の完全な統制下で生産が回復した後、昭和25年(1950年)に石炭企業は自由競争市場へ復帰することとなります。

しかし、1960年以降、石炭産業は物価上昇にともなう採掘コストの上昇や、競合関係にある石油の値下がりなどを背景に、経営が悪化していきます。労使間紛争も起こり、大規模なストライキも頻発するようになりました。

石炭生産量の推移
1900年から1950年までの石炭生産量の推移を示したグラフです。

(出典)エネルギー生産・需給統計年報/石炭エネルギーセンター調べ/北海道管内石炭生産実績表

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石炭と石油それぞれのポテンシャルを比較検討した政府は、それまで国のエネルギー産業の主役だった石炭産業を合理化する方向に政策を転換します。ただし、閉山にあたっては、炭鉱関係者や地域社会に与える深刻な打撃を極力回避することとし、40年という歳月をかけました。そして平成14年(2002年)に、一部の露天掘りを除きすべての炭鉱が閉山しました。

石油が一気に、日本のエネルギーの主役の座に

石炭に代わって、日本のエネルギーの主役の座に躍り出たのが、石油です。1950年代に中東やアフリカで相次いで大油田が発見されたことから、この頃、石油は世界的に潤沢に供給されていました。日本では戦後しばらくの間、「外貨割当制度」(輸入代金の支払いに必要な外貨の発行を政府の許可制とすることで、自由貿易をコントロールする制度)のもと輸入が規制されていましたが、昭和37年(1962年)になって原油の輸入が自由化されます。

政府は、石炭と比べ安く安定的に供給でき、また利便性も高い石油を中心としたエネルギー政策に舵を切り、この年、日本のエネルギー供給は初めて石油が石炭を抜きました。以降も「エネルギー革命」は加速度を増して進み、昭和48年(1973年)には日本の1次エネルギー(自然から採取されたままの物質を源としたエネルギー)の8割近くを石油が占めるまでになりました。

これだけ飛躍的に石油需要が増えたのには、マイカー時代の到来(モータリゼーション)に加えて重化学工業の発展が大きく関係しています。当時の日本はさらなる成長をめざして「軽工業から重化学工業への転換」を図っており、太平洋沿岸を中心とする各地に石油コンビナートが建設されました。

石油コンビナートは、石油・石油化学・鉄鋼など異なる産業を一カ所に集め、原料である石油を多角的に活用し効率的な生産をめざす一大工業地。石油を中心とした産業が、日本の経済成長を牽引するようになったのです。

岩国大竹コンビナートの写真です。

岩国大竹コンビナート (出典)三井化学

油田開発は、国内から国外へ

国内油田開発については、昭和28年(1953年)に策定された「石油資源開発5カ年計画」にもとづき調査・探鉱が行われ、新潟県や秋田県で油田・ガス田が発見されました。しかし、この時期の石油価格は国際的に安かったため、油田開発の軸足は次第に国内から海外油田に移ります。

日本による、初の本格的な海外油田開発となったのは、サウジアラビア、クウェートの両国の中立地域沖合にあるカフジ油田。電力・鉄鋼・商社など約40社が共同で設立した「アラビア石油」が昭和35年(1960年)、海上油田の試油テストを行い、翌年から操業を開始。成功を収めました。

サウジアラビアのサウード国王に謁見する日本輸出石油社長 山下太郎氏の写真です。

サウジアラビアのサウード国王に謁見する日本輸出石油社長 山下太郎氏 (出典)富士石油ホームページ

電力は火力と水力が、約半世紀ぶりにまた逆転

第二次世界大戦中に国家管理下に置かれていた電力産業は、戦後になると新体制に移行します。昭和26年(1951年)には、全国の発送電を一手に担っていた国策企業「日本発送電株式会社」が解散となり、発送電と配電を一貫して経営する9つの民間企業が地域別 (北海道・東北・東京・中部・北陸・関西・中国・四国・九州)に誕生しました。これ以降、20世紀はこの9電力による独占的な地域別電力体制が続きます。

戦後は電力へのニーズも急増したため、新たな電源の開発が求められました。そんな中で、水力発電所よりも短期間に建設できる火力発電所が急ピッチで増え、電源の構成は約半世紀ぶりに、火力が水力を上回るようになります。火力発電の燃料はというと、前述のとおり、1960年代以降は石炭から重油や原油へと主役が移っていきました。

1960年代後半になると、「通常時」と「ピーク時」とで差がある電力需要に応じて、火力と水力を使い分ける考え方が出てきました。通年の一定需要に対しては高効率・大容量の火力発電所が担い、季節や天候により需要が高まるピーク時の調整は、貯水池式の大規模一般水力発電所が担うという考え方です。

またこの頃から夜間に比べ昼間の需要が増大したため、デイリーピークに対応するための揚水式水力発電も開発されるようになりました。

原子力を平和利用する「原子力発電所」が誕生

原子力発電を世界で初めて成功させたのは、アメリカ。昭和26年(1951年)のことです。そこから世界で原子力の平和利用が進められました。日本は先進諸国に遅れをとったものの、1950年代中ごろから法整備や推進体制の整備を図り、新たな電源としての原子力開発に期待を寄せるようになりました。

原子力発電の技術は、アメリカやイギリスからノウハウを導入しました。民間電力会社と国の共同出資で設立された「日本原子力発電株式会社(日本原電)」が、茨城県東海村に日本初の商業用原子炉「東海発電所」を建設し、昭和44年(1966年)に営業運転を開始します。ここから日本の原子力発電が広まっていきました。

都市ガスのない地域を中心に、家庭に行き渡ったLPガス

LPガス(液化石油ガス/プロパンガス)も原子力と同様、戦後に普及が始まったエネルギーです。戦前にも一部で使われていましたが、本格的に市場に出回るようになったのは昭和28年(1953年)頃。近代化された製油所でLPガスが副次的に生産されるようになったこと、また、日本海側の油田やガス田からLPガスが分離回収されるようになったことが、背景にあります。

都市ガスが引かれていない地域では、その頃もまだ家庭用燃料としては薪や炭が使われていたため、ガス管を引かずともボンベで運べ、薪などと比べ取り扱いが容易で熱量の高いLPガスは、家庭に急速に普及しました。国内生産だけでは追い付かず、海外からの輸入も開始されたほどでした。

LPガス需給の推移
1956年から2016年までのLPガスの需給推移を示したグラフです。

(出典)資源エネルギー庁液化石油ガス需要想定小委員会「LPガス需要見通し」

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また、LPガスはガソリンに比べて割安で、ノッキング(エンジンが異常燃焼すること)が起こりにくい性質でもあったことから、昭和37年(1962年)にはタクシーの燃料として採用されるようになりました。LPガス自動車は戦前からありましたが、これを機に本格普及、5年後には登録台数が10万台にのぼりました。

こうして、戦後の日本はエネルギー革命と共に復興を遂げ、世界有数の経済大国として発展していきました。しかし、そんな日本を世界的なエネルギーの危機が襲います。次回は、オイルショックから始まったさまざまなエネルギー政策について見てみましょう。

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