【日本のエネルギー、150年の歴史②】国の屋台骨として、エネルギー産業は国家の管理下に

大正元年(1912年)の1年前(明治44年)に刊行された『東京風景』に掲載された、日本橋の様子の写真です。

大正元年(1912年)の1年前(明治44年)に刊行された『東京風景』掲載の、日本橋の街並み。ずらりと並ぶ電柱や路面電車が写っている。(出典)国立国会図書館デジタルコレクション

今年2018年は、明治元年(1868年)から150年を数える節目の年。そこで、明治維新以降の歴史の中で、日本のエネルギー開発・エネルギー利用がどのような変遷をたどってきたのかを6回シリーズで振り返ります。

第2回は、明治時代のエネルギー産業の黎明期から、大正時代を経て昭和時代に完成するエネルギー産業の近代化、そして第二次世界大戦終了に至るまでの日本におけるエネルギー史を追います。

国家の屋台骨として、強まったエネルギー産業の管理

大正時代に入ると、近代産業の発展にともない、東京駅の開業、タクシーの営業開始など、交通網がさらに発達していきます。ガス、電気、水道などのインフラ整備も本格化しました。百貨店の登場、洋服や洋食の普及なども含め、今日に通じる都市生活の原型はこの頃できあがったのです。

大正3年(1918年)刊行の『日本名勝旧蹟産業写真集. 近畿地方之部』に掲載された、大阪市・難波橋通の写真です。

大正3年(1918年)刊行『日本名勝旧蹟産業写真集. 近畿地方之部』より、大阪市・難波橋通の様子。(出典)国立国会図書館デジタルコレクション

一方で、この時代は、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と戦争が続いた時代でもありました。工場や軍艦の動力であるエネルギー産業は、「国家の屋台骨」として、国の管理が強まりました。

各エネルギー産業の発展の経緯を、エネルギー別にみてみましょう。

ガスの用途は照明から熱源へとシフト

街灯から利用が広まったガス事業は、1900年代に入ると海外の例にならって熱利用の方向にシフトします。ガス会社はガスの利用促進のため自らがメーカーとなり、イギリスから輸入したガスコンロ、ガスかまど、ガスストーブ、ガス湯沸かし器などを参考に、ガス器具の国産化に着手。それが功を奏し、1910年代には大都市圏を中心にガスの普及が進みました。

さらに、明治22年(1889年)頃にはガスエンジンも輸入され、ガスは工業の動力としても使われるようになります。取り扱いが簡単なため、中小企業などでも急速に普及し、大正3年(1914年)には2700台に達しました。

こうしたガスの利用拡大は、現代へと続くガス産業の礎が築かれることにもつながりました。1900年代に全国で10社ほどだったガス事業者は大正4年(1915年)には90社にもなりました。その中には、今も活躍する事業者もふくまれていました。

電力は5社がしのぎを削る「電力戦」時代へ

日露戦争や第一次世界大戦をきっかけに、官民一体となった工業化が進むと、電灯の普及に加えて工場の電化が進み、電力需要は急拡大しました。

しかし、初期の発電所は石炭を使った小規模火力発電であり、送配電網も未整備だったため、電力を供給できるエリアは発電所の近隣に限られていました。

新たな発電所の建設は急務。しかし、おりしも、燃料の石炭価格は高騰します。そんなジレンマを打破する一手として、東京電燈(東京電力の前身)は、大規模水力発電を建設します。アメリカから導入した「超長距離送電技術」によって、遠く離れた山梨県桂川水系の駒橋発電所から電気を引き、拡大する東京の電力需要を満たしたのでした。

水力発電はその後全国の電力会社で採用され、1910年代(明治末期~大正初期)になると、火力と水力の出力比率が逆転しました。また、大容量水力発電の開発により、電気料金を低下させることが可能になりました。

火力発電中心の時代には、全国で大小とりまぜ60社以上の電力会社が自由競争を行っていましたが、大規模な水力開発によって電気料金が下がり、事業者間の競争が激化して、需要家の争奪戦である「電力戦」が繰り広げられます。その中心的な担い手となったのが、小売電力会社3社と卸売電力会社2社からなる「5大電力」でした。1920年代から1930年代前半(大正後期~昭和初期)にかけてのことです。

寡頭競争により、業界は収益悪化で混乱状態に。そこで所管官庁であった逓信省が事態収拾に乗り出し、昭和7年(1932年)に自由競争があらためられ、電力事業は供給地域独占事業となったのです。つい最近まで電力会社が地域独占だったのは、ここに由来しています。

その後、第二次世界大戦が近づいて統制色が高まる中で、「電力産業は国家の管理下に置くべき」という主張が唱えられるようになります。昭和13年(1938年)には、「電力国家管理法」が成立。翌年、既存企業から強制的に設備出資させた国策企業「日本発送電株式会社」が設立され、民間電力会社は9つの配電会社となり、電力の国家管理時代を迎えました。

産業・軍事の動力の要となった石油

石油ランプからスタートした石油産業。しかし、電灯の普及によって、明治43年(1910年)ごろから灯油需要は著しく減少します。代わって漁船用の軽油、自動車用のガソリン、軍艦用の重油の需要が増加していきます。石油は「灯り用」から「動力エネルギー」としての位置づけに変わっていきました。

日本初の国産ガソリン車の写真です。

日本初の国産ガソリン車 タクリー号 (出典)日本石油株式会社「日本石油百年史」

国内の油田開発は、大正4年(1915年)の秋田・黒川油田の大噴油(地下の油田から石油が大量に噴き出すこと)で生産量のピークを迎えます。しかし、第一次世界大戦の勃発で開発設備の輸入が絶え、新しい油田の開発作業に支障をきたすこととなり、その後生産量は減少を続けます。こうして国内油田に限界が見え始めたことから、大正10年(1921年)には、輸入原油の精製事業が日本で本格的に始まりました。

太平洋戦争開戦直前の日本は、石油の9割以上を輸入に依存する状況となっていました。昭和16年(1941年)、米・英・オランダは対日石油輸出を全面禁止にし、日本はこれを契機に同年12月、太平洋戦争に踏み切ります。

時の政府は、戦時下において国内の原油生産は必須とし、同年、国策会社「帝国石油」を設立。既存民間企業の中から原油採掘部門を吸収し、国内油田の多くを国の管理下に置きました。民間各社は採掘を行わず精製・販売を担う事業者として、整理統合が進みました。

原油生産量及び輸入量の推移
1913年から1939年までの原油生産量及び輸入量の推移を示したグラフです。

(出典)日本石油『本邦鉱業ノ趨勢』、『石油便覧』

大きい画像で見る

戦後復興の原動力となった石炭の緊急増産

戦前の石炭鉱業は、産業振興や戦争を遂行するための重要物資としての使命を担っており、国によって増産が奨励されました。出炭量は、太平洋戦争開戦直前の昭和15年(1940年)に史上最高を記録しています。

しかし、戦時中に採掘がおこなわれすぎたことによる炭鉱の荒廃、空襲による被害、熟練労働者の離散などで、戦争直後には生産能力が半減してしまいました。その復活は、経済再建政策としてこの後おこなわれることとなる石炭の増産対策まで待つ必要があったのです。

次回は、戦後の日本のエネルギーの歴史をたどります。

お問合せ先

長官官房 総務課 調査広報室