第2節 上流開発への投資促進

1.世界規模でのエネルギー開発投資の減退と投資促進に向けた国際協調

(1)世界の上流投資減少

2014年後半からの原油価格の下落により、世界的に上流投資が減少しています。原油価格はWTIで2014年の最高値107.26ドル(6月20日)から、2015年には34.73ドル(12月18日)まで下落し、更に2016年には約13年ぶりとなる26.21ドル(2月11日)まで下落しました。上流開発会社各社は、こうした原油価格の下落に伴い、相次いで投資計画の見直しを行いましたが、原油価格の下落スピードはそれを上回り、2015年のメジャー各社の投資額は、2014年比で10 ~ 20%、額にして約300億ドル減少しています。また、独立系と呼ばれる中堅規模の上流会社では2014年から2015年の間に約30 ~ 60%の投資額が減少しています。

世界全体を見れば、IEAの発表によると、2015年の世界の上流投資額は、2014年比で約20%減少(2014年比で約15兆円減)し、リーマンショック後の投資減少額を上回っております。更に、IEAは2016年も引き続き上流投資額が減少すると予測しており、仮に2年連続で上流投資が減少することになるとこれは史上初めての出来事であり、中長期的に需要に供給が追いつかず、原油などの価格が急騰する危険性があると警告しています。これは、資源の上流投資は探鉱を必要としない既発見油ガス田であっても投資から生産に至るまで短くとも数年の時間を要するため、急な需要変動にすぐには対応できないためです。

我が国企業も2015年の第三四半期の決算では軒並み当期純利益と投資額が減少しており、我が国の上流開発会社では2014年から2015年にかけて、純利益が約4400億円、投資額が約2100億円減少し、新規の探鉱・開発案件への着手が困難な状況となっています。

【第112-1-1】世界の上流開発投資の落ち込み

世界の上流開発投資の落ち込み

出典:
IEA 「World Energy Outlook 2015」

【第112-1-2】我が国石油・天然ガス開発企業の利益の推移

我が国石油・天然ガス開発企業の利益の推移

出典:
各社決算情報を基に資源エネルギー庁試算

【第112-1-3】我が国石油・天然ガス開発企業の投資額

我が国石油・天然ガス開発企業の投資額

(注)
商社データはエネルギー部門のみ
出典:
各社決算情報を基に資源エネルギー庁試算

【第112-1-4】オイルメジャー5社の純利益推移

オイルメジャー5社の純利益推移

出典:
各社決算情報を基に資源エネルギー庁試算

【第112-1-5】オイルメジャー5社の投資額推移

オイルメジャー5社の投資額推移

出典:
各社決算情報を基に資源エネルギー庁試算

このように、足下の低い原油価格がエネルギー開発投資を減退させることで、将来の需給ひっ迫要因となり、中期的な原油価格の高騰や世界経済の不安定化のリスクになっています。

エネルギー投資促進は、将来の供給力確保のみならず、産油国を含む新興国の成長をも促すことになり、ひいては世界経済の安定につながります。現状は、官民ともにリスクマネーの供給主体が不足しており、各国政府が協調して投資を促進していくことが必要です。

2.我が国の上流開発投資

資源の大部分を海外に依存する我が国にとって、資源の安定供給の確保のためには、我が国企業による海外における資源権益の獲得が必要です。このため、特に、油価の低迷により国内外の資源関連企業による投資余力が低下している中、我が国の企業が探鉱や資産買収を継続するために、①リスクマネー供給などの環境整備、②中核的な上流開発企業の育成に取り組みます。また、③ハイレベルでの資源外交を継続していきます。

(1)リスクマネー供給の重要性

①石油産業の特性

石油開発事業は大きく分けて、鉱区の事前調査に始まり、(ア)人工的な地震波などによって地質の構造等を調査する物理探査を行った上で、実際に掘削リグを用いて試掘を行い、商業的開発に十分な油・ガスの埋蔵を確認する探鉱段階、(イ)商業的開発に十分な油・ガスの存在に基づき、生産プラットフォームやパイプライン等の生産設備を建設する開発段階、(ウ)実際に生産を開始する生産段階に分類されます。

【第112-2-1】石油開発の流れ

石油開発の流れ

探鉱段階では、原油・天然ガスの埋蔵を確認する上で、一坑井数十億円~数百億円以上の費用を要する試掘の実施が必要となります。加えて、仮に埋蔵が確認された場合であっても、商業的に採算が取れると期待されるだけの十分な埋蔵量が発見できなければ事業化は不可能であるため、巨額の投資にもかかわらず、回収不能となる危険性を常に孕んでいます。

また、探鉱への着手から生産の開始までには、一般的に十数年以上を要する息の長いプロジェクトであり、その間は当該プロジェクトからは利益を得ることが出来ないという特性があります。

更に、石油は特定の地域に偏在しているため、一たび当該地域での動乱などの不安定要因が持ち上がると、開発・生産を止めざるを得ないというカントリーリスクを孕んでいます。

加えて、石油は減耗性の資源であるため、一定期間(数年~数十年)生産を続けると埋蔵量が減退し、枯渇するという特性を有しています。このため、石油開発事業への投資は、相対的に高い事業リスクを有しています。

これらのリスクの高さゆえに、石油開発事業では我が国のみならず世界的にも、欧米のオイルメジャーや新興国の国営石油会社等、一定程度以上の資本力を有する企業が主体的になって従事するという構図となっています。

②メジャーの歴史

いわゆるオイルメジャーの源流は19世紀末の米国におけるジョン・D・ロックフェラーによるスタンダード・オイル設立にさかのぼります。当時は、石油の用途が広がり、需要が急増していたため石油産業が急成長しました。その一方で過度な生産と資本の集中に対する批判が高まり、1911年「シャーマン反トラスト法」により、スタンダード・オイル・ニュージャージー(現エクソン・モービル)やスタンダート・オイル・ニューヨーク(現エクソン・モービル)、スタンダード・オイル・カルフォルニア(現シェブロン)をはじめとする数十社に解体されました。

また、スタンダード系の各社に対抗する形で、テキサス及びメキシコ湾の油田開発を目的として1902年にテキサコ(現シェブロン)が、1907年にはガルフ・オイル(現シェブロン)が設立されました。

欧州系オイルメジャーの発展は、1890年にオランダ領の植民地であったインドネシアでロイヤル・ダッチ石油会社(現ロイヤル・ダッチ・シェル)が、1908年にはイランの石油開発を目的としたアングロ・イラニアン・オイル(現BP)が相次いで誕生し、いわゆるセブン・シスターズと呼ばれる欧米の国際石油資本によるオイルメジャーを中心とした世界の石油開発の体制が整いました。

その後第2次世界大戦を経て1960年代に至るまでの国際石油市場は、これらの欧米オイルメジャーによってコントロールされる時代が続きました。これらのオイルメジャーは、石油の探鉱・開発から末端の製品販売に至るまで、世界的な規模で垂直統合を行っており、文字通り世界の石油市場を支配する存在でした。

【第112-2-2】セブン・シスターズの埋蔵量と生産量(1949年時点)

セブン・シスターズの埋蔵量と生産量(1949年時点)

出典:
米国連邦取引委員会「国際石油カルテル」(諏訪良二訳)(オイルレポート社、1998年)カッコ内は当時の社名

その後、1980年~ 1990年代にかけ、オイルメジャーにおいても合従連衡が進み、1984年のスタンダード・オイル・カリフォルニアとガルフ・オイルの合併によるシェブロン(2001年にはテキサコも統合)や1999年のエクソン・モービルの誕生をはじめとした、現在のスーパーメジャー2と呼ばれる体制への移行が進みました。

【第112-2-3】メジャー等の大合併

メジャー等の大合併

出典:
独立行政法人石油天然ガス・鉱物資源機構レポートより

③産油国・国営石油会社の台頭

欧米の国際資本によりオイルメジャーが形成される中、20世紀前半の中東や中南米などの産油国においては、石油資源の探鉱・開発に際して、そのほとんどの国が鉱業法などの法規や、開発のための高度な技術を持たず、自国の資源の開発をオイルメジャーに依存していました。産油国とオイルメジャーとの契約は石油利権契約と呼ばれ、埋蔵量が期待される広大な鉱区の開発及び生産に対し、30~ 40年に及ぶ長期の権利を付与する一方、産油国の取り分は生産量1トンあたりの利権を受け取るという簡素なものでした。

一方、第二次世界大戦後に世界的に盛り上がった民族意識の高揚の中、1948年にはベネズエラ、1950年代には中東各国において、先進国並に原油販売の収益に50%の所得税を課すという改訂が行われました。こうした経験から、産油各国は従来の石油利権契約の改訂を行い、数年ごとに鉱区の一定割合の面積を返還させることとしました。更に、新規鉱区の取得者に対しては、利権期間の短縮、返還条項の厳格化、探鉱の義務化など産油国側にとって有利な契約条件の実現を図りました。

当時、国際的に取引される原油価格はオイルメジャーによって決定されており、そこでは「ガルフ・プラス方式」3及び「中東プラス方式」4と呼ばれる価格決定方式が用いられ、石油メジャーが産油国に対して支払う税額の算定基準となる価格は公示価格と呼称されていました。

この公示価格はその時々の市況に応じて上述の価格決定方式に基づき石油メジャーが決定しており、産油国は価格決定プロセスにおける発言権を持っていませんでしたが、こうした民族意識の高まりなどを受け、産油国の間では、本来は自らの主権が及ぶはずの資源である上に、国の財政収支を大きく左右する原油の販売価格を石油メジャーが独占的に決定することに対して不満が高まっていきました。この中で、1950年代後半にソ連からの大量の原油輸出に対抗するために石油メジャーが一方的に公示価格の水準を引き下げると、これに反発した産油国は1960年、石油輸出国機構(Organization of PetroleumExporting Countries: OPEC)5を設立し、公示価格を凍結しました。

一方、産油国とオイルメジャーの石油利権契約に基づく操業は継続し、オイルメジャーは、凍結された公示価格に基づく所得税や利権料を産油国に支払う一方で、石油の探鉱・開発や生産された原油の販売に至るまで、事業そのものの実施については一切の制約を受けることなく独占的な権利を有していました。

このため、産油国は自国で販売可能な原油をもっておらず、この凍結された公示価格は産油国に対する石油収入の分配を決定するためにのみ用いられ、実勢の取引価格は引き続き石油メジャーが決定するという状態が続きました。

結成直後のOPECは国際石油市場に対し大きな影響力を持てませんでしたが、1960年代の後半に入り、年間で200万バレル/日を超える高い需要の伸びが続くと、次第に国際石油市場における需給バランスもひっ迫するようになりました。

このような需給のひっ迫化を背景に、産油国の影響力は着実に強まっていき、1970年代に入ると、OPEC諸国は石油メジャーを始めとする外資企業と協定を結び、輸出原油価格の設定の確保や石油利権への事業参加(石油利権の部分的取得)を実施していくこととなりました。

そして、1973年10月に第4次中東戦争が勃発し、サウジアラビア、クウェートなどアラブ産油国が対アラブ非友好国に対する石油禁輸を宣言するに至ると、産油国の石油会社に対する優位性はさらに高まりました。この禁輸は、OPECのアラブ産油国が米国を始めとする先進諸国の対中東政策に異議を唱える目的で実施したものでしたが、結果として国際石油市場におけるOPEC優位の構造を決定付ける出来事でした。

こうした禁輸措置による需給ひっ迫感の高まりを背景に、OPEC加盟の中東湾岸産油国は1973年12月、それまで凍結されてきた公示価格を130%引き上げることに成功しました。この公示価格の引き上げは、産油国側が一方的に実施し、それ以降、公示価格の引き上げに際して産油国がオイルメジャーと協議を行うことはありませんでした。この時点で産油国はオイルメジャーから価格決定権を完全に奪取したと言えます。

加えて、1972年12月にサウジアラビアやアブダビ(アラブ首長国連邦)など中東産油国と石油会社との間で締結されたリヤド協定においては、翌1973年より段階的に産油国側の事業参加が進められることとなっていましたが、1974年にはクウェートは一気に60%の事業参加を行うことを宣言し、また、1975年には比率を100%にまで引き上げ国内石油利権を完全に国有化しました。

この後、他の産油国もこのクウェートの動きに追随し、サウジアラビア、カタールなどにおいても国内の石油利権の完全国有化がなされ、多くの産油国の国営石油会社(以下NOC(National OilCompany))に実権が移りました。

【第112-2-4】1970年代におけるOPEC主要産油国の石油事業国有化の動き

1970年代におけるOPEC主要産油国の石油事業国有化の動き

こうした産油国が存在感を増すようになってきました。石油天然ガス・金属鉱物資源機構によれば、これらNOCは大きく、(ア)大資源国・大輸出国のNOC(サウジアラムコ(サウジアラビア)、PEMEX(メキシコ)など)、(イ)大生産国でありながら、同時に大消費国の一部民営化されたNOC(CNPC(中国)、Gazprom(露)など)、(ウ)企業行動様式がほぼ純粋な株式会社、営利企業であるNOC(ペトロナス(馬)、スタットオイル(ノルウェー)など)の3類型に大別されます。

 いずれもオイルメジャーに比肩するかそれ以上の石油・天然ガスの埋蔵量・生産量を保持しており、国際的な影響力が強まっています。

これらNOCは国内の開発・生産にとどまらず、積極的に海外権益への参入を図っている企業も多数存在し、その一部は我が国企業とも協力し、時には競合する存在となっています。

一般的にこうしたNOCは技術力の面で、オイルメジャーらに比べて劣るとされてきましたが、近年は、油ガス田の開発に必要な技術を内製化せず、油ガス田サービス会社へ外注するなど開発の方法が変化したことに加え、NOC側も自国での探鉱・開発事業により、一部の技術においてはオイルメジャーらと遜色ないレベルのNOCも出始めています。

こうしたNOCの台頭により、我が国企業による海外での探鉱・開発事業はこれまで以上に複雑さを増していくことが予想されます。

④近年のスーパーメジャー、産油国(含むNOC)の動き

オイルメジャーの合従連衡等によるスーパーメジャーへの移行と産油国の台頭による世界の石油開発体制が一定の安定を見る中、2000年代は、リーマンショックによる一時的な油価の急落を除けば原油価格は上昇基調であったこともあり、資源開発投資は積極的に行われていました。他方、産油国が経済発展に伴い自国における需要が増大するとともに、産油国の技術力が徐々に向上していることを背景に、産油国に再びこうした資源ナショナリズムが高まってきているとする見方も少なくなく、自国の資源に対する外国資本のアクセスを制限しようとする動きを見ることができます。

一方、従来から開発が進み、技術的に難易度の低い陸域の在来型の油・ガス田で資源獲得競争が激化することと対照的に、例えば深海開発や非在来型資源の開発、LNG開発などは非常に高度な技術を要する分野であるため、産油国側も自国の技術では不十分なケースが多く、そのためオイルメジャーもこうした分野に対し重点的な投資を行っています。

⑤我が国の取るべき方策

我が国は、経済活動及び国民生活の基盤となるエネルギー、とりわけ石油・天然ガスの国内需要の大部分を海外からの輸入に依存しているため、その安定的かつ低廉な供給の確保に向けた取組が不可欠です。

他方、前述のとおり、産油国での資源ナショナリズムの高まりによる資源獲得競争が激化する中で、我が国企業がプロジェクトの開始から生産に至るまでに巨額の投資と長期間を要するハイリスクの資源開発プロジェクトに取り組む上で、オイルメジャーと比較した場合の我が国企業の資本力の脆弱性・技術力の劣後等が存在するため、我が国企業単独での資源開発は、困難と言えます。

【第112-2-5】国際石油開発会社(International Oil Company)、国営石油会社(National Oil Company) の生産量比較

国際石油開発会社(International Oil Company)、国営石油会社(National Oil Company)の生産量比較

INPEXの中長期Vision(2012)では、「2020年代前半に生産量100万バレル/日を目指す」とされている。
出典:
JOGMEC

そのため政府としては、これまでも、(ア)石油天然ガス・金属鉱物資源機構を通じたリスクマネー供給、(イ)中核的企業の育成、(ウ)政府による積極的な資源外交を三位一体として取り組んできたところですが、今般の低油価局面では、世界的な資源開発投資の停滞により、投資の開始から生産までに長期間を要する資源開発プロジェクトの特性から、将来の需要増に対して供給が追い付かず、需給がひっ迫するリスクがあることから、政府によるリスクマネー供給が果たす役割は一層高まっていると言えます。

同時にメジャーなどの上流開発企業に加え、産油国や国営石油会社でも財政面において厳しい状況に直面することから、優良な権益が放出される可能性が考えられ、事実、報道によると既にロシアやブラジルなどで上流権益の一部売却の動きが見られます。このため、政府としても、低油価の局面を我が国企業による権益獲得の好機と捉え、投資余力が著しく低下している我が国企業がこの好機を逃すことなく権益を取得することが出来るよう、リスクマネー供給を含め、資源確保に向けた取組を一層進めていくことが必要です。

また、我が国は国産を含む石油・天然ガスの自主開発比率6を2030年までに40%以上とするという目標を掲げています。直近の集計では約24.7%(2014年度)と計測開始以降最も高くなりました。今後も新規権益の獲得や海外での資産買収、国内石油天然ガス開発の推進などを通じて、更に自主開発比率を高め、我が国のエネルギー安全保障を強化していくことが求められます。

【第112-2-6】我が国の自主開発比率の推移

我が国の自主開発比率の推移

(注)
1973年度から2008年度まで石油のみを対象とし、自主開発比率を算出してきたが、エネルギー基本計画(2007年3月閣議決定により定義を見直し、2009年度以降は石油と天然ガスを合算して、自主開発比率を算出。

(2)日本のエネルギー安全保障を担う中核的な上流開発企業

我が国は、明治・大正期には、国内生産で自国の需要を賄うことが可能でしたが、その後、国内の石油需要が増大するにつれ、海外から資源を調達する必要が生じました。ここでは我が国の石油・天然ガス産業が明治以降どのような変遷を経て、現在に至るのかを俯瞰し、今後我が国がどのように資源を獲得すべきかを論じます。

①我が国の石油・天然ガス上流開発事業の歴史

(ア)戦前

我が国の石油開発は、明治以前から新潟、秋田、長野、静岡地方において、露頭の滲出原油や浅い手掘井から原油を採掘し、精製して利用していました。

明治になり、公式な生産量記録が残っているのは1874年の555kl/年(約9.5バレル/日)です。

近代鉱業として、石油開発が本格的に行われたのは1891年日本石油が新潟県尼瀬海岸において、生産に成功したことが嚆矢とされています。

一方、当時の我が国の石油開発企業はそのほとんどが中小企業であったため、資金力が脆弱で、リスクの高い上流開発を行うことが難しい状況にありました。その中、1888年資本金15万円で日本石油(現JXエネルギー)が設立され、ほどなくして1892年には群小企業を統合する形で宝田石油が資本金1万5千円で(現JXエネルギー、1921年に日本石油と合併)設立され、この2社が業界をリードしていきました。

戦前の我が国の石油生産量は1915年の約47万kl/日(約8100バレル/日)を境に減少に転じ、昭和期に入ると30万kl/日(5200バレル/日)まで減少しました。

このため政府は国内の未開発有望鉱区と海外における石油資源開発事業の推進を目的とし、石油資源開発法に基づき、日本石油以外の鉱区の中で、有望な鉱区から開発を行うため、日本石油、日本鉱業、中野興業、旭石油、小倉石油、北樺太石油、協和鉱業等の各社出資により、「帝国石油資源開発」を資本金1千万円で設立しました。政府は同社に対し、試掘に対する機械購入代金や試掘費の補助などの支援を行いました。一方、当時は、国内油田の大部分は日本石油が既に属していたことから、政府は同社設立趣旨のもう一つの柱である「海外における石油資源開発事業」の推進のため、更に巨大な国策会社を設立し、我が国の採掘部門の一元化を図るべく、1941年3月帝国石油株式会社法に基づき、同年9月に帝国石油(前 帝国石油資源開発)が設立されました(資本金1億円)。

かかる中、太平洋戦争が勃発した後の1942年3月1日(法律上の資産引き継ぎは4月1日)に、日本石油、日本鉱業、旭石油の各上流部門と中野興業の資産及び人員を帝国石油へ引き継ぎました。こうして、我が国の石油産業は太平洋戦争突入を契機に、帝国石油に引き継がれた上流部門と日本石油等が推進する中下流部門に分離していきました。

(イ)戦後

太平洋戦争の影響としては、戦争末期の米軍による本土爆撃により中流部門の精製工場は大きな被害がありましたが、上流開発地域は爆撃の対象外だったため、無傷で残りました。

一方、敗戦の結果、(ⅰ)北樺太油田の採掘権放棄7、(ⅱ)台湾油田の喪失、(ⅲ)生産設備の南方移転、(ⅳ)石油開発従事者の中から2,000名に上る犠牲者を出したこと、(ⅴ)約1万2,000名にのぼる石油開発関係従事者を国内のわずかな油田で養わなければならなくなったこと等により、石油上流開発企業は軒並み厳しい経営環境に直面しました。

こうした背景から、1946年には官民合同の臨時石油鉱業調査会(商工省鉱山局長の諮問機関)が設置され、産学官が協力して油田の回復に努めました。同年11月には総司令部天然資源局の勧奨に基づき、臨時石油鉱業調査会の一部会として石油資源開発促進委員会8が設けられ、同会では総司令部指導の下、産学官からの委員により、第一次石油資源開発5カ年計画を作成しました。また、米国より地震探鉱、重力探鉱など最新の探鉱技術等が導入され、国内の探鉱地域は著しく拡大しました。これにより、秋田県八森油田や同県八橋油田の深層部開発等が進展しました。

1952年5月に「石油及び可燃性天然ガス資源開発法(法律第162号)」が交付されたことに伴い「石油資源開発法」が廃止され、同法に基づいて設立された石油及び可燃性天然ガス開発審議会は1953年9月「石油資源総合開発5カ年計画案」を通商産業大臣(当時)へ答申しました。

同答申では主に

  • (ⅰ)5カ年後の原油生産量の目標は年間100万klとし、探鉱部門に傾注することで約900万kl(5年間)の可採埋蔵量を発見する。
  • (ⅱ)地質調査を徹底的かつ計画的に行う。
  • (ⅲ)156地域について、約468坑を掘削し、その掘削総計深度を約64万mとする。これにより、10油田(約900万kl)を発見する。
  • (ⅳ)新油田、既存油田に対し、深掘井、採掘井を掘削し、老朽油田に対して二次時採油法を実施して残存埋蔵油の採取を図る。が決定されました。

同じく、1955年には石油資源開発株式会社法(昭和30年法律第152号)が成立し、石油資源開発が設立されました。同社は帝国石油から一部の財産・人員を承継し、国内の石油資源の新規探鉱・開発活動を行うこととなり、一方の帝国石油は既存油田及び天然ガス開発を行うという分業体制が成立しました。

一方、海外での上流開発は1952年まで連合国軍の占領下におかれたため、全く手を付けられない状況でした。その中、1956年にサウジアラビア政府より土田サウジアラビア大使(当時)に、同国が石油開発利権を与えているアラムコより一部返還させた地域の石油利権を外国企業に付与する考えであり、日本企業の進出を歓迎する旨の意向が伝えられました。この情報を得た日本輸出石油社長の山下太郎氏らは1957年クウェートとサウジアラビアの中立地帯沖合鉱区の石油利権契約に調印しました。翌1958年には電力、鉄鋼、商社等約40社からなるアラビア石油が設立され、日本輸出石油から利権協定の権利義務が譲渡されました。

アラビア石油は1958年8月から地震探査を開始し、翌年に試掘1号井の採掘を開始しました。1960年には1000kl/日(約17バレル/日)の試油テストに成功し、同油田はカフジ油田と名付けられました。本油田は戦後日本最初の本格的な海外油田の開発でした。

同時期、1960年にインドネシアの石油公社であるプルミナ(現プルタミナ)から財界の小林中氏らを中心とする小林グループに対し、円クレジット供与による援助方式で北スマトラの諸油田の復旧開発を行い、その見返りに原油の無償供給を行うという申し出があり、同年4月に協定が調印されました。1960年6月に北スマトラ石油開発協力(NOSODECO)が石油資源開発を中心とした52社の出資により設立されました。

また、インドネシアでは1966年に、石油資源開発の出資により、後に現在の国際石油開発帝石となる北スマトラ海洋石油資源開発が設立され、プルタミナとスマトラ沖海上鉱区の開発に関する施生産物分与契約が締結され、北スマトラ石油開発協力とともに、インドネシアにおける我が国石油開発事業の礎となりました。

【第112-2-7】我が国石油・天然ガス業界の変遷

我が国石油・天然ガス業界の変遷

出典:
各種資料を基に資源エネルギー庁作成
(ウ)石油公団の設立と廃止

政府の資源開発政策については、我が国企業による海外石油探鉱を促進するために財政資金を投入する政策を掲げて、石油開発公団の構想をまとめました。その結果1966年に石油資源開発株式会社法を廃止し、石油資源開発を新設の公団に吸収させることとなりました。新設される公団の根拠法たる石油開発公団法は1967年に成立し、同年10月2日に石油開発公団が発足しました。

その後1978年の国家備蓄業務の追加により、石油開発公団は石油公団へと改称されました。石油公団は自主開発を推進するため、国内の上流開発企業に対し、資金面、技術面での支援を行い、2005年の解散まで、我が国企業による資源開発の支援に取り組んできました。石油公団による資源開発により、インドネシアにおけるマハカム沖油田(北スマトラ海洋石油資源開発。現国際石油開発帝石)や、アブダビ海上油田(ジャパン石油開発。現国際石油開発帝石)、サハリン1(サハリン石油開発協力)等の自主開発権益獲得の成果がありました。

石油公団の枠組みによる我が国の上流資源開発の評価については、後に、石油公団が不良資産の増加による欠損の拡大により解散を余儀なくされた際、我が国の新たな上流開発体制の構築を方向付ける文書として、2003年3月に公表された総合資源エネルギー調査会石油分科会開発部会石油公団資産評価・整理検討小委員会報告書「石油公団が保有する開発関連資産の処理に関する方針」において、「石油公団の支援を受けて設立された石油・天然ガス開発企業は、確認可採埋蔵量ベースで、欧米のスーパーメジャーには及ばないものの、全体で中堅メジャーに比肩する規模の石油・天然ガス資産を保有するに至り、また、我が国向け自主開発原油も年間輸入量の10数%程度を確保するなど、石油・天然ガスの安定的な供給に一定の貢献を果たしてきた」と述べられています。

他方、「石油公団が保有する開発関連資産の処理に関する方針」は、同時に、「我が国の石油・天然ガス開発の事業体制は、今日に至っても脆弱なままである。多くの小規模なプロジェクト企業と少数の中小規模の事業会社とで構成されている状況にあり、これまでのところ、欧米諸国のメジャーやナショナル・フラッグ・カンパニーに比肩する自律的な企業体は登場していないのである」とも指摘しています。

②今後、我が国に求められる中核的企業

石油公団の解散後の我が国の新たな石油・天然ガス開発体制の再出発の方向性としては、「石油公団が保有する開発関連資産の処理に関する方針」において、石油公団廃止に至った反省を踏まえ、我が国の上流開発体制は、石油公団主導から、(ア)中核的企業により担われる「効率的な海外権益獲得・エネルギー供給の実現」、(イ)石油公団の後継機関である石油天然ガス・鉱物金属資源機構(JOGMEC)による「戦略的なリスクマネー供給と研究開発支援」、(ウ)政府が推進する「積極的な資源外交」、がそれぞれ役割分担を明確にしつつ三位一体となって機能する体制へ変化していくこととなりました。

この中では、中核的企業が備えるべき要件としては、(ア)上流権益形態の国際的な複雑化に対応して、高度な経済性分析や経営戦略立案を実行しうる経営能力、(イ)海外でのオペレーターシップを効率的に遂行できるだけの高い技術力、の2点が挙げられ、国際石油開発(当時)が中核的企業として位置付けられました。 中核的企業として位置付けられた国際石油開発は2005年3月の石油公団の解散に伴い、石油公団が保有するアブダビ等の優良資産を承継するとともに、2006年に国際石油開発帝石ホールディングスを設立し、2008年に国際石油開発と帝国石油を吸収合併し、新たに国際石油開発帝石が誕生しました。

国際石油開発帝石は、上流開発企業の中核的企業として国際上流専業企業のトップクラスを目指し、2020年代前半に生産量100万バレル/日を目標に取り組んでおり、2015年4月には、世界最大規模のアブダビ陸上油田の権益をアジア企業として初めて獲得し、生産量を約50万バレル/日まで上昇させるとともに、豪州においては、初のオペレーターを務めるイクシスLNGプロジェクトについて、2017年の生産開始を目指して、開発に取り組んでいます。

日本全体としても、国際石油開発帝石を中核的企業とする上流専業企業群、販売力及びファイナンス力に強みを有する商社や世界最大規模のLNGの購買力を有する電力・ガス事業者が連携をしながら、自主開発権益の獲得及び開発に取り組んでおり、2014年度末の自主開発比率は過去最高となる24.7%を達成したところです。

しかしながら、昨今の地政学的なリスクの増大、原油価格の変動幅の拡大、産油国における資源ナショナリズムの台頭による資源獲得競争の激化に鑑みれば、我が国の石油・天然ガスの安定供給確保のため、2030年までに自主開発比率を40%以上とする目標の達成に向け、我が国の上流開発を進めることが必要です。

今後、ますます激化する資源獲得競争に打ち勝っていくには、(ア)上流権益形態の国際的な複雑化に対応して、高度な経済性分析や経営戦略立案を実行しうる経営能力、(イ)海外でのオペレーターシップを効率的に遂行できるだけの高い技術力、の更なる発展に向け、中核的企業が率先して取り組んでいくことが求められます。

(3)資源外交

前述したとおり、我が国は、高まる国内需要に応えるため、昭和以降本格的に海外での資源獲得に向けて動き出しました。 特に戦後以降は、本邦企業による海外権益の獲得が相次ぎました。政府としても資金的な支援に加え、総理を筆頭に資源国との間でハイレベルの交渉を行ってきました。ここでは代表的な本邦企業による上流開発の事例を交えながら、我が国による資源外交の歴史を俯瞰し、また今後いかに資源外交を進めていくべきかを論じます。

①戦後からの資源外交史

戦後、我が国は連合国による統治下に置かれたため、海外での探鉱・開発は1952年の主権回復を待つ必要がありました。 以下、戦後日本の海外主要プロジェクトをひもときながら、我が国の資源外交を概観することとします。

(ア)カフジ(クウェート、サウジアラビア)

戦後初の大規模開発プロジェクトとなったのは山下太郎氏が率いる日本輸出石油(後のアラビア石油)でした。 1956年末にサウジアラビア政府より土田エジプト大使兼サウジアラビア公使(当時)に、同国が石油開発利権を与えているアラムコより一部返還させた地域の石油利権を外国企業に付与する考えであり、日本企業の進出を歓迎する旨の意向が伝えられました。

当時、中東では民族主義の台頭とそれに伴う資源ナショナリズムが高まっていました。特に旧宗主国とオイルメジャーに対する反発が強まっており、そのいずれにも属していない日本に期待が集まっており、また、当時残されていた鉱区は開発が難しい鉱区が多く、日本の持つ工業技術に対する期待もあったこと等が背景にあると推察されます。

この情報を得た日本輸出石油社長の山下太郎氏らは1957年、クウェートとサウジアラビアの中立地帯沖合鉱区の石油利権契約に調印し、翌1958年には電力、鉄鋼、商社等約40社からなるアラビア石油を設立し、日本輸出石油から利権協定の権利義務が譲渡されました。

アラビア石油は1958年8月から地震探査を開始し、翌年に試掘1号井の採掘を開始しました。1960年には1000kl /日(約17バレル/日)の試油テストに成功し、同油田はカフジ油田と名付けられました。

カフジ油田は商業量発見より40年が権益期限とされていたため、権益期限後の再獲得に向け、1990年代前半よりサウジアラビア政府との間で積極的な資源外交がなされました。1997年の橋本総理(当時)がサウジアラビアを訪問した際は、同国側より(ア)20億ドルの鉱山鉄道建設を含む日本側からの投資増加、(イ)長期契約による原油引取量を当時の約100万バレル/日から150 ~ 200万バレル/日へと増量することを求めてきました。

これらの提案の背景には、当時、サウジアラビア政府は若年層の雇用機会創出のため、大型プロジェクトを必要としており、その解決策として鉱山鉄道建設が浮上したという点が考えられます。

サウジアラビアは北部地域にボーキサイトや化学肥料の原料となる燐光石等の鉱物資源が豊富だったため、これらの資源を開発し、当部のペルシャ湾内に新設する工場でそれらを加工し、輸出することを検討していました。また、これら原材料の運搬のため、北部と東部、約1400kmを結ぶ鉄道を建設するという巨大プロジェクトであり、我が国としては限られた財源の中での資金負担が非常に困難でした。また、同国からの原油引取りについても、アラビア石油が生産を行うカフジ産原油は他の原油に比べ硫黄分が多く、重質油であったため、採算性の確保が困難でした。

1990年代後半より、両国間で積極的な交渉がなされたものの、残念ながら、合意には至らず、2000年にはサウジアラビア側で、2003年にはクウェート側で権益期限を迎え、約40年にわたり我が国の原油安定供給の任を担った「日の丸油田」の歴史に幕を閉じました。

【第112-2-8】サウード国王に謁見する山下太郎氏

サウード国王に謁見する山下太郎氏

出典:
アラビア石油HPより
(イ)ADMA鉱区(アラブ首長国連邦)

1969年頃より、我が国の石油開発業界とBP(British Petroleum)との間で大規模な提携構想が持ち上がり、1971年、合同石油開発(現コスモエネルギー開発、JX石油開発、三井石油開発らによる合同出資会社)がUAEのエルブンドク油田におけるBP保有権益の一部譲渡を契機に、BPとの交渉が本格化していきました。

1972年、海外石油開発はBPが3分の2の株式を持ち、アブダビ首長国沖合に石油利権を有するAbuDhabi Marine Areas社(以下、ADMA社)への参加交渉を開始しました。1972年ADMA社の株式2/3を有するBPXAH社(BP子会社)の45%を取得し、ADMA社権益の30%に間接参加しました。

1973年には、同プロジェクトの推進母体として我が国の上流開発企業ら9社によりジャパン石油開発が設立され、海外石油開発から売買契約に基づく一切の権利義務を譲り受けました。本プロジェクトは生産中油田の本格的利権を我が国が初めて獲得したプロジェクトでした。

本油田の権益期限は2018年3月であることから、我が国の重要権益の再獲得に向け、アブダビ側の関心が高い、エネルギー、教育、医療、投資・産業、先端技術等の分野における協力を実施するなど政府による後押しを行っているほか、総理や閣僚らを中心にアブダビ政府要人らとの間で権益延長に向けたハイレベルの交渉を行っています。

また、こうした努力が一部結実する形で、2015年4月には、世界最大級の規模を誇るアブダビ陸上油田について、これまでのオイルメジャーの独占から、国際石油開発帝石が、アジア企業として初めて、40年間にわたる長期契約で、5%の権益を獲得することに成功しています。

【第112-2-9】ADMA鉱区図

ADMA鉱区図

出典:
ジャパン石油開発HPより
(ウ)供給源の多角化(米国からの原油・LNG輸出)

エネルギー安定供給の観点からは、自主開発権益の確保とともに、供給源を多角化し特定地域からの供給途絶リスクを低減することが必要となります。かかる観点から、2000年代後半以降のシェール革命により、サウジアラビアを抜いて世界第一位の石油生産国となった米国との連携は、政治的安定性が高く我が国の最大の同盟国であるとともに、太平洋を挟んだいわば隣国であることから輸送ルートにおいてホルムズ海峡のようなチョークポイントを回避できるという地理的特性があります。 他方で、米国では、石油・天然ガスを安全保障に直結する戦略物資と位置付け、原油は長らく法律で輸出を禁ずるとともに、LNG輸出についても自由貿易協定(FTA)締結国又は個別に米国政府の承認が必要でした。

このため、日本政府としては、2012年頃から我が国企業による米国のLNGプロジェクトへの参画に際しては、米国エネルギー省に対して日本に対する輸出承認を行うよう働きかけを行い、我が国企業が参加をするすべてのLNGプロジェクトについて、輸出の承認を獲得しました。さらに、2015年には日本と米国が参画をする環太平洋パートナーシップ(TPP)協定が合意されたため、今後は、個別の輸出承認の交渉などは不要となり、日本企業が参画をするLNGプロジェクトについては、速やかに承認がなされ、一層スムーズな調達が可能となることが期待されます。

【第112-2-10】米国のLNGプロジェクトの図

米国のLNGプロジェクトの図

出典:
各報道等を基に資源エネルギー庁作成より

我が国企業による米国からのLNG引取りは、早ければ2016年中にも開始される見込みです。

また、原油についても、長らく輸出が禁止されていましたが、我が国からの原油輸出解禁を求める取組もあり、2015年に輸出を解禁する条項を含んだ法律が可決され、40年ぶりに米国からの原油の可能となりました。

こうした米国からの石油・天然ガスの輸入は、我が国のエネルギー安定供給の確保に大きく寄与するものであり、我が国の資源外交の成果であると言えます。

②今後の資源外交のあり方

我が国は1次エネルギーの大部分を海外に頼っており、今後もこの構造は容易には変わらないと見込まれます。

1次エネルギーの中で大きな割合を占めている石油・天然ガスなどの化石燃料を如何に安定的に調達するかが我が国の命題と言えるでしょう。

このためには、資源国との間で開発・生産を行う民間企業のみならず、政府間においても重層的かつ互恵的な関係構築が必要です。

我が国は、世界の埋蔵量の大半が賦存する中東産油国から年間輸入量の約8割を依存しており、これら国々との良好な関係の維持は、エネルギーの安定供給に直結します。

産油国側は、国家収入の大半を原油・天然ガスに依存しており、社会の安定的発展のために産業の多角化に迫られており、また、欧米とは異なる我が国の戦後からの発展に信頼を寄せていることから、他国とは異なる我が国の特性を活かした資源外交が必要でしょう。

具体的には、産油国の抱える課題を的確に把握し、それらに対して我が国が持つ技術、人材などのソフトパワーによる解決を図ることで、産消両国にとって益のある協力関係を構築していくことが必要です。

2
一般的にエクソン・モービル(米)、シェブロン(米)、ロイヤル・ダッチ・シェル(英/蘭)、BP(英)、トタル(仏)の5社をスーパーメジャーと呼びます。
3
米国メキシコ湾岸(ガルフ)での原油価格を元に輸送コストを反映させて世界各国に対する原油の販売価格を設定するという価格決定方式。
4
中東プラス方式とは同様に中東での原油価格を指標にして世界各国への原油販売価格を決定するという方式。
5
設立当初の加盟国は、サウジアラビア、ベネズエラ、イラン、イラク、クウェートの5か国。
6
自主開発比率は、石油及び天然ガスの輸入量及び国内生産量の合計に占める、我が国企業の権益下にある石油・天然ガスの引取量(国産を含む)の割合と定義されます。
7
北樺太油田の採掘権放棄は1944年。
8
「 石油資源開発促進委員会」は、1949年に「石油開発促進審議会」と改称して官制化され、1952年に「石油及び可燃性天然ガス資源開発法」に基づいて、「石油及び可燃性天然ガス開発審議会」へと発展的に解消されました。